清水さんと初めて会った時、「いとこ」のような近さを感じた。
そんなことを言うと、清水さんや清水さんのファンに怒られてしまいそうだけれど、「匂い」の受け止め方や、人への思い、距離感、そういうものに、とても自分と近いものを感じたのだ。
今思うと、死との距離の近さなのかもと。

なぜかと言うと、自分の小さい頃まで遡らないといけないけれど、きっとかまわないだろうと勝手に決めて書いていく。

まだ保育園の頃
なぜか、死や永遠がリアルに感じられて、永遠の果てのなさに目眩がした。
当時父や母は新興宗教に入って、集まりに連れて行かれることも多かった。
ただ、本当に幼いながらに、なぜこの人たちは、子供でも裏付けのないことにこんなに熱心になっているのだろうと思った。
死が怖いのだろうと思った。
そんな親たちに、死の恐ろしさを訴えることはできなかった。したらダメだと思った。
だから昼は犬と二人、野山を走り回っていた。夜になると、少しずつ読めるようになった本の世界に入り込んで死や永遠の恐ろしさから逃げようとした。

その頃、あるシーンが頭に焼き付いている。
近くの公園でブランコに乗る友達を見ながら、あっという間に10年20年30年と過ぎていって
その所々であのブランコからあっという間だったと思うに違いない
そう思った。
62歳になって、その通りだったなと。
きっと死ぬ時にも、思い出すんだと思う。
さっきあった出来事のように。

だから、後悔だけはしないように生きたいなと思った。
わがままでいいから、自分の決めたことだけをやりたいと思った。
同時に、人がどの人も愛おしいと思った。
名古屋祭りというものがあって、いつも泣けて仕方なかった。
多くの人が行列を組んで本当に嬉しそうに踊って練り歩く。
いつかあっという間に永遠に帰っていくのに。
知っているのにと。
だからこそ人間て、いじらしく愛おしいと思った。
その思いはずっと変わらない。

そんな、死や人に対する思いを
なぜか、この人は持っているなと
初めてあった時に感じた。

生まれてきたこと。
今生きていること。
いつもカラダ全部で味わいたいと思う。
友達と、生きていきたいと思う。
いつまで一緒にこの世界に居られるかはわからない。
でも、一瞬一瞬のこの時間は
きっと永遠にそこにあると思う。
まだまだ一緒に、この生を味わっていこうね、清水さん。

(たかやま ふじこ ライター)


清水哲男:富士子とぼく@春一番コンサート2019

「いとこ」のような近さと、言われたからにはその片鱗を見せなければならない。
こうやってふたり並んだ写真を見ると、いとこどころか兄弟にさへ思える。
こいつが男やったら、いろんなところを引っ張り回すのだが。

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