清水さんの応援プロジェクト、そのコメント欄に何か書かなくてはいけないんだけど、日々ぼーっとしてて何も思いつかない。
ぼーっとしてるというのはただぼーっとしてるだけでなくこの年になっていろんな身体の不具合が出てきて、それと向き合いそれってどういう症状なんだろうっと不安に考えさせられるぼーっとなんだな。
「死」がそこにあるという事をやむ負えなく考えてしまうというぼーっとという感覚か。
「死」というものが容赦なくさりげなく思ってもなくここに忍び寄るという感覚。
これが年をとるということか、でも僕はそいつとは仲良く生きていくしかない、そうできるどうかわからないが。
(せいけ まさのぶ カメラマン)
清水哲男:清家正信さん
清家さんの写真が好きだ。花の写真が特に好きだ。
何かを訴え、語りかけ、求めるように咲く、艶かしい花たちの姿はまるで女そのものだ。
京都の写真展で、その中の1点をどうしても欲しいと思ったが、やめた。
部屋に置くとずっと魅入られて何も手につかなくなるような不安にとらわれたからだ。
つまり清家さんの写真に生きているということだ。
清家さんは2016年にぼくが大阪で「揺れて歩く」を展示した時、ご自身の個展開催中にも関わらず足を運んでいただいた。
「感動しました」のひと言がとてもうれしかったし、その後の励みになっている。