揺れて歩く
2014年の夏、91歳になる母が体調を崩した。
ひょっとすると寝たきりになるかもしれない。そんな不安さえあったが、母は誰もが驚くような快復を果たした。
家の中で少々動けるようになった母を、リハビリだといって外へ連れ出した。もちろん父も一緒だ。外を歩くことが不安だった母は、恐る恐る玄関を出た。歩行器を押しながら2、3歩進んで振り返った。
「あら、大丈夫やわ。歩けるわ」
「そうかあ、よかったやん」
少々耳が遠くなった父が大声で答える。路地の表まで50メートル足らず。そこまで行けばタクシーが待っている。1歩ずつ、確かめるようにゆっくり進む。
「すまん。わしもつかまらしてくれ」
父が歩行器の片方のハンドルを、母の手の上から握った。
並んで歩く後ろ姿がゆっくり揺れている。
この頃この夫婦には、死がある種の輪郭を整えた影を日常に落としているとは思えなかったはずだ。大きな流れの終着点として、そろそろ着く頃かもしれないという漠然とした思いはあったかもしれないが、決して現実ではなかった。
「あと5年は生きられたらええなあ」と父。
「うちは100まで生きたい」と母。
〈緩やかな死〉と言えばいいのだろうか。〈死にいく自分〉を意識しながらも、まだ〈生きていく自分〉に希望を見出していた。それは夫婦二人だけではない。周囲の誰もが思っていた。夫婦はずっと生き続けるだろうと。
この時、母91歳、父86歳。
間違いなく夫婦は〈死にいく自分〉と〈生きていく自分〉の間を揺れながら歩いていた。
書籍情報
タイトル:揺れて歩く~ある夫婦の一六六日~
ジャンル:ノンフィクション
編集・出版:エディション・エフ(京都市)
発行日:2020年4月15日
著者:清水哲男
撮影:清水哲男
頁数:192p
体裁:B5変形横型(182mm×210mm)
ご支援いただいた皆様へ―清水哲男